Homilog

たまに頑張る。

『クララとお日さま』を読んで考えた、人のこころ

最近ビジネス書籍ばっかり読んでいて、感性が豊かじゃないぞ?という気がしたので、小説のなかでも特にお気に入りの1冊『クララとお日さま 』を再度手にとって読んでみた。

物語は、主人公である人工知能アンドロイド「クララ」が、所有者であり人間の「ジョジー」とその家族との共同生活や意思疎通を通じて「人の心」を学習していく、というもの。

久しぶりに読んだ感想として「やっぱり良いなぁカズオイシグロ氏の丁寧な文体は…」となったのと、この本の根源的なテーマである「人の心とは何か」について、思うことがあったので備忘録としてまとめておく。

(※以下ネタバレあり)

そもそも「人の心」とは何なのか?

ジョジーのお父さんは、人の心は人間1人ひとりを特別な個人にする要素(アイデンティティ)と考えている。
心は複雑なもので、行動の癖のように表面化しているものではない。
表面化していないものをアンドロイドが模倣することは不可能なのでは?とクララに問いかける。

一方でクララは、時間があれば「できる」と答える。
アンドロイドは人の感情を深層学習という技術によって学んでいく。
クララからすると、人の心はたくさんの部屋がある「家」であり、部屋を1つひとつ調べて歩く時間さえ与えられれば、他人の家だとしてもいつかは「自分の家」にすることができると考えている。

人の感情の深層学習は複雑で難易度は高いが、感情の機微を視覚情報から集めて、データ処理をしていけば、すべての機械学習に終わりがあるように、いつかは心の学習も終わりが見えてくるのでは?というのが、クララの持論だ。

このクララとジョジーのお父さんの会話は、クライマックス章の第六部よりもずっと前の第四部で展開されるのだが、この会話こそクライマックスにつながる重要な伏線だと個人的には思う。(1年前の自分もここの会話が刺さっていたのか、きちんとドッグイヤーをしていた形跡があった笑)

心は模倣できてもアイデンティティは模倣できない

クライマックスでクララは、自分というアンドロイドが人の心、つまりはジョジーの心を習得して、人間であるジョジーの完璧な成り代わりとなることはできなかったと話す。

それは、人間1人ひとりを特別な個人とする要素、アイデンティティは、本人の心にあるのではなく、周囲の人々の心の中にもあるとわかったから。

つまり、模倣する相手の心を時間をかけて習得できたとしても、その周囲にいる人たちが抱いている「模倣相手への感情」まで習得できなければ、完全に成り代わることはできないとわかったからだ。

クララのこの回答は、人間のアイデンティティは、生まれてから死ぬまで「社会」という枠組みのなかで、他者との関わりによって形成されるものだと考えさせられた。

 

そしてふと思い出したのが、いまから8年前。webライターを生業にしていたときに、お話しする機会をいただいた、アンドロイド研究開発の第一人者である石黒浩先生との会話。

先生が「人間の記憶」について話していた例え話だ。

「人って社会的な生き物ですよね。
例えば、飲みに行って記憶を無くすまで飲んで、次の日に『お前こんなことしてたよ』って一緒に飲んだ人から言われたら、その言われたことが昨晩の自分の記憶になりますよね。
だって、自分の意識がないところで自分が何かをしていた、と他者が証言しているのだから。
実は人間の記憶ってそのくらい曖昧なもので、記憶は自分以外の他者を介在してつくられることが多いんですよ。
だから、人は社会的な生き物なのです。」

人の記憶も、人のアイデンティティも、結局は社会という枠組みのなかで、他者との関わりから創られるということ。

そして人間は社会への帰属意識なくしては存在できない生き物なのだと改めて感じた。

 

素敵な本に出会えてよかった。
たまにはこんな時間も。