Homilog

たまに頑張る。

デトロイト美術館展に行ってきた!

上野の森美術館で開催されている、「デトロイト美術館展」に行ってきた!たくさんの画家の絵が展示されていたけれど、なかでもピカソルノワールの絵が印象的だった。


ピカソ

素人目の感想ではあるけれど、ピカソの作品を7作品くらいみて「この人はあらゆる技法をどんどん取り入れる、勉強家であり努力家なんだなぁ」と感じた。

それは、絵の端々から、ピカソという人間の生真面目さがまじまじと伝わってきたから。

実は、ピカソは今でこそ奇抜な画風の印象が強いけれど、初期の頃は、そこまで奇抜なものは多くなかったみたい。でも、ある時から、その作風をガラッと変えていた。

その変化を見て、あぁ、ピカソのなかで積もり積もっていた何かがはじけて、「俺が描きたいのは商業用の絵ではない!」「俺は俺の絵を描く!」と思い立ち、培ってきたノウハウを混ぜ合わせた、独自の画風が生まれたんだなぁ!って妄想してすごく興奮した。(本当かどうかは知らない)

これまで、ピカソの絵はまったく理解できなかったけど、なぜ評価されているのか、フワッと理解できた気がする。それにそういう背景がもし事実(であることを願う)だとしたら、なんてロックな画家なのだろうか!ピカソかっこいい!!(本当かどうかは知らない)

ルノワール

ルノワールの絵についても思うことがあった。

ルノワールは、現代に好かれるような画風だなぁ〜、って、今日の展示会に行くまでは正直甘くみていた。

でも、実際にルノワールの絵を間近でみて、その細部に至るこだわりに、とても惹きつけられた。

遠目からだと気づかない。でも、近くでみると、目の輝きや下唇のふくらみ、目頭から頰の曲線、裸体の乳首にいたるところまで、緻密な工夫が凝らされている。

光の加減で、それらの象徴的な部分のみ、絵の具が重ねられたり、加工されていることに気づいた。そして、それらの小さな加工が、絵の女性に命を宿していることに気づき、ハッとした。

ルノワールは、間近でみていると、本当に絵が生きているかのような錯覚に陥いる。

名前が思い出せない

もうひとつ印象的だったのは、名前忘れちゃったけど、パリのとあるカフェを描いたもの。

おかしなことに、その絵はインドネシアのとある光景を思い出させたのだ。

着飾っているのに、どこか寂しげな表情でぼーっとする人や、男女がタバコをふかしながらだべっている光景は、私が一年前に訪れた、ジャカルタの高級デパート内にあるカフェでの光景を想起させた。

フランスとインドネシア。まったく逆の国なのにこのシンクロニシティは何なのかなーって不思議に思った。過去のパリの街並みが、インドネシアよいまの街並み。何だか不思議。

まとめ

デトロイト美術館展は、これまでのわたしの絵画に対する価値観をガツーーーーンと変えてくれた。たくさんの画家が、自分の感情や精神状態を一枚の絵で表現していた。

言葉を使わずに、自分の根底にある感情や思いを第三者に訴えることができるなんて、画家という仕事は本当に素晴らしい。そしてその生き様が本当にかっこいいな、って思った。

これからもピカソルノワールは要チェックしたいなぁ、と思う。美術館巡りは新たな趣味だ!

そしていろいろあって一人暮らしのお供として、今日からサボテンを育てることになった。赤子と黄子。一郎と二郎。に命名。よろしくね。

アドレナリンジャンキーに効く薬

 

アドレナリンジャンキーに効く薬ってなんだろうか?

たぶんわたしはアドレナリンジャンキーなんだと思う。刺激がない日々が続くと廃人みたいになってしまう。なので、今年は積極的にアドレナリンがバンバン出るスポーツに挑戦していこうと思う。

ボルダリングは落ちることの恐怖。スラックインはまさに「吊り橋効果」といってもよいほどの緊張感を味わうことができるんだぜ。

 

このふたつのスポーツもいいけど、パルクールというスポーツ。めちゃくちゃ楽しそう。

 


Freerunning In Bangkok's Ghost Tower | Team Farang

相手のことを知りたいと思う気持ち

相手のことを知りたい、と思う気持ちは不思議だ。

ただ興味があるから
もっと仲良くなりたいから
自分の成長した姿を見て欲しいから
相手の変化した姿を見たいから

そう思う理由はいろいろあるよね。

自分がツライときに偶然近くにいて
人には見せたくない嫌なところをズバッと当てて
そのままでいていーんだよーって諭してくれて
全部まるっと受け止める

悲しい感情は時間とともに薄れていくけれど、
嬉しいとか有難う、っていう正の感情を強く感じた瞬間は、いくら時間が経っても忘れないものだなぁ、って。

四捨五入したらアラサーだけれど、まだまだ解明できてない感情はたくさんある。

と、ちょっとポエミーなことを書いてみる。

悩む。

 

f:id:homilog:20160706103423j:image

仕事を始めて1ヶ月が経った!ようやく社内の空気感や雰囲気にもなれた。

コンテンツマーケッターとしての仕事も、模索しながらではあるけれど少しずつ前進はしている、と自己評価。

ただ、自分の実力の無さ、知識量の無さを、日々痛感している。

これまで、IT畑でライティングしていたとは言え、ソフトウエア開発会社で正社員として働くのは初の試み。

 

社内のエンジニア同士の話題で頻出する、Python,Ruby,Perlなどのプログラミング言語。クライアントを訪問した際にでてくる、IT系ネットベンチャーの歴史とプログラミングのイベントの名前。 

すべてを理解するのは、非エンジニアの自分にとって、難しいのはわかってる。 

でも、みんなが”何を”話しているのか、問題としているのか、注目しているのか、少しでも理解できれば、話し合いができる。

そうすれば、自分の視野が広がるし、仕事の幅も広がるのに、と強く思う。 

じゃぁ、自分もプログラマーになれるのか?と言われると、正直難しいし、あまりにも短絡的すぎる。ただ、みんなが何を話しているのか理解するために、プログラミングの知識を増やしたい、とは思う。

 

そこが、非エンジニアの私に求められた”本質”ではないことは重々わかっているけれど、本質をつく上で、見逃せないポイントではあると、認識している。 

業界を知る、エンジニアを知る、プログラミングを知る、ITを知る…etc 

幸運にもやることはたくさんある。ネガティブにならないで、前向きに吸収する心意気でいようじゃないか!

毎日、何かしらの前進をしてそこに楽しさを見出そうーー!

 

http://toyokeizai.net/articles/-/125599?display=b

 

最初の日

緊張して1時間半しか眠れなかった。

環境が変わる前日は決まって眠れなくなるのよね。
 
今月から新しいカイシャです。
カイシャで働くのです。
 
緊張するなぁ。
でも、まずは求められているものに応えて、慣れてきたら自分のアイデアも出していくということだな。
 
最初の月はひとまず、「コミュニケーション」に重きをおいて、人、サービスとひたすらコミュニケーションを取る。
 
内部把握を把握する「知るフェーズ」
どんなことをしているのか、内部を積極的に把握していく。知るフェーズでは、ただ受動的になるのではなく、能動的に動く。取材、ライティングなどの自分が”いまできる”手段を使って「相手のサービスを知る行動」のアウトプット/プロトタイプをつくっていく。
 
次は「実行・検証フェーズ」。知るフェーズで得た結果をもとにして、自分がいまできる手段の”検証”をして、”効果”を上げていく。
 
次は「精査のフェーズ」。一連の流れの効果をもとに、効果が高いもの低いものを割り出す。高いものは引き続き。低いものはなぜ低いのか分析して、改善できるか否かを判断。取捨選択する。
 
このサイクルをもとにして、一ヶ月単位の短期間サイクルと、三ヶ月単位の長期間サイクルで
ログして効果を検証するぞー!
 

デザインと人工知能に人類学が必要とされる理由と共通点

f:id:homilog:20160517230946j:image
午前のworkshopで発表された「ライフプログレスベースのプレゼントサービス」のプロトタイピング。参加者はインタビュイーにプレゼントに関する思い出を聞き出し、アイデアの構築した。これも人類学(相手のニーズ)を生かしたデザインの一種だと個人的には解釈してる。

5/17にMicrosoftで開催されたDesign for Innovation2016に参加してきた。

一番印象的だったのは、デザインにも人類学が必要とされていること。人工知能もその重要性が議論されている。両者の目的をとことん突き詰めると「イノベーション」という言葉で混じり合うと思うのだけど、その前段階の”動機”にあたる部分は、まったく違う気がするなぁ。

デザインにとっての人類学の必要性=イノベーティブな発想を作り出す(未来) 人工知能にとっての人類学の重要性=曖昧だったものを明確化するため(過去) みたいなイメージ。


翻って、技術のコモディティ化によって、技術革新に答えを求めるのが限界があるから、生物の起源とか根本的なところが注目されている、のかとも。

でも、これはデザインに置き換えるとハマるんだけど、人工知能にはハマらないんだよなぁ。

人工知能の場合は、ヒトに関する解明が求められていて、その答えを技術に求めるのが限界だからこそ、生物の起源とか根本的なところが注目されている。

デザインににおける人類学の必要性についてもっと勉強しよう。分野的には人間工学、UXとかなのかな。

SuicaはSuperUrbanIntelligentCardの略って知ってた?

f:id:homilog:20160516004031j:image
見た目はペンギン☆頭脳はオトナ!(akaオトナの世界のドロドロに巻き込まれた哀れなペンギン)

Suica に関するデータの社外への提供について

(中間とりまとめ)Suica に関するデータの社外への提供について

Suicaの本質は“誰何”-JRスイカ売りの何が問題か-(りゅうたいぷ) - BLOGOS(ブロゴス)

この一連の流れをみて思ったのは、マーケティング戦略(読み)が甘かったんだなぁ、ということ。

JRが初期の段階から”じわじわ”と、個人情報と「パーソナルデータ」(※)の違いをユーザーにしっかりと明示して、ゆくゆくはそのパーソナルデータを企業に提供するかもしれませぬ、ってユーザーに発信し続けてればここまで問題にならなかったのではないかと。
(※生年月日や住所など個人を特定できるものが「個人情報」。行動履歴や購買情報などは「パーソナルデータ」に分類され集合知ビッグデータとなる。)

個人的には、行動履歴や購買履歴であればすっぱ抜かれるのは別に嫌じゃない(まぁ本当にその情報だけで収まるかは怪しいところだけど)。

でも、データを使います!という旨を事前にもらえたら嬉しいかな、と思う。理由は、自分の情報がどこかに活用されることで、頻繁に使う社会のシステムのどこかしらが改善されている、と感じれたら気分が良いから。回りに回ってその享受はなにかしらの形で自分に返ってくると思うし。純粋に、社会全体の利便性が高くなるのは良いことだよね。

でも、知らないところで自分の情報が使われていることの気味悪さを、まったく感じないのか?と言われたら、少なからず感じるというのが正直な答え。

ただ、Googleと言い、Facebookと言い、Twitterと言い、じぶんの個人情報はすでにドバドバ知らない場所へ流出されているんだよね。その分利益も享受しているけれど。


まっ、今回のJRと日立の件は、提供者側が、日本人の性質を踏まえたマーケティング活動をしなかったことが、イチバンの原因だったのではないかと。

日本人は秘密主義で、もともと自分のことをオープンにする民族ではなかった。だから、情報に関する明示責任とか他のどの国よりも重んじるし、国民一人ひとりの情報管理に対する敏感さみたいなのも、総合的にみると世界でも上位なのではないかと思う。

その点、監視国家シンガポールの人びとは、用心深い国民性にも関わらず、超情報化された社会とうまく付き合っていると感じる。効率性を何よりも重んじるからこそ、なせる技なのか。その甲斐もあって、シンガポールは超統制されていて、未来都市とまで言われてるからすごい(ちなみに、古き良き〜なもの(=非効率性)が好きな私はあまりこの国を好きになれなかった)。

まぁ、これから日本も含めてさまざまな国が、シンガポールのような情報網が張り巡らされた未来都市になっていくのだろうな。

個人的には、主要都市はどんどんスマート化させて、でも地方の古き良き文化や風景は壊さずにそっとしておいてほしいなぁ〜と、身勝手なことを思う。